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米沢平野管内ぶらり探訪 米沢市

米沢市

上杉神社 ~戦国時代の名将上杉謙信公を祀る~

上杉神社本殿
 上杉神社は、戦国時代の名将で、米沢藩の藩祖として崇敬されている上杉謙信公を祭神としています。
 上杉謙信公は大正6年(1578年)3月13日、越後春日山城で逝去されました。葬儀は3月15日、大乗寺良海を導師とし、荘厳を極めたといいます。遺骸は甲冑を着け、かめに納めて密封され場内墓所に納められていました。上杉景勝公の慶長3年(1598年)の会津への移封、また慶長6年(1601年)米沢への移封に伴い、謙信公の遺骸は移され城内の御堂に納められていました。
 慶長17年(1612年)祠堂を造営し、中央に遺骸、左に善光寺如来尊、毘沙門天を安置していました。その後、明治になって仏式から神式に改められ、謙信公、鷹山公二柱を祀り、上杉神社と称し神祭を行うようになり、明治9年5月21日現在の場所(旧米沢城奥御殿跡)に社殿が建てられたのでした。上杉神社は明治35年4月26日に別格官幣社に昇格し、この時祭神は謙信公一柱となり、摂社に鷹山公を祀り松岬神社としました。
 大正8年の大火により類焼し、本殿などほとんどの建物が焼け落ちましたが、翌9年から再建を始め、同12年4月に完成。その総工費は46万5500円余の大工事でした(ちなみに同年米沢市の予算は31万円余)。設計は米沢市出身、日本建築学の権威者で、文化勲章受章者でもある伊東忠太博士です。

松岬公園

上杉謙信公像
上杉鷹山公像
桜の松岬公園
 松岬公園は長井氏以来、伊達・蒲生・直江・上杉の諸氏の居城した城址跡です。明治6年、城が取り壊され、明治7年、公園として市民に解放されました。四周を濠(幅20~30m、延長約800m)に囲まれ、そこには桜(200本)が植えられており、桜の名所としても有名です。
 また、公園内には、中央に上杉神社、濠外東方に松岬神社、同南方に上杉記念館(旧上杉伯爵邸)、市立児童会館があります。また、上杉謙信公像、上杉鷹山公像をはじめ、上杉神社稽照殿(宝物殿)、春日神社、福徳稲荷神社、招魂費、上杉謙信公祠堂跡、伊達政宗生誕の地標柱等があり、歴史を身近に感じることができる公園でもあります。

伝国の杜 ~上杉の歴史と舞台芸術を合わせ持つ博物館・文化施設~

伝国の杜
 博物館・文化施設「伝国の杜」は、県立の「置賜文化ホール」と、市立の「米沢市上杉博物館」の2つが合築されたものです。市民の憩いの場所「松岬公園」に隣接しており、現代的な建築の中にも和風建築の要素が取り入れられて、周辺の景観との調和が配慮された建物となっています。
 「伝国の杜」という名称は、米沢藩九代藩主上杉鷹山が残した「伝国之辞」に由来しています。
 「置賜文化ホール」では、コンサートホールとして、劇場としてさまざまな催し物が行われています。 そして「米沢市上杉博物館」には、数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されており、置賜と上杉の歴史と文化にふれることができます。
■上杉鷹山の伝国之辞
 鷹山は窮乏期に養子に迎えられ、弱冠十七歳で藩主となりました。鷹山は自ら一汁一菜を実行するなど倹約を行い藩の財政を立て直し、また農民の援助、殖産興業、開拓、水利事業など様々な改革を行って米沢藩の民政の安定、経済の復興を図りました。また、三十五歳で治広公に家督をゆずってからも生涯藩政の安定に心をくだいた名君でした。鷹山は家督を譲るとき、治広公に君主の心得として「伝国之辞」を与えました。その内容は現在の民主主義思想であり、封建時代にあってこの政治信条は類例がありません。
■伝国之辞
 一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべきものにはこれ無く候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

慶次清水 ~多くの逸話を残した前田慶次ゆかりの清水~

現在も水が湧き続ける慶次清水
善光寺
善光寺にある前田慶次の供養塔
■慶次清水の由来
 万世町堂森の善光寺の西、八幡原野球場の裏の杉林に人知れずコンコンと水を湧き続けている清水があります。現在は梓川地区の水田の補水として重宝されていますがその歴史は古く約四百有余年にさかのぼります。
 慶次清水は、当改良区の幹線施設であり、深さ0.12m、湧水量は0.03m3/s、所在地は米沢市万世町堂森で、関係受益地域は米沢市竹井、堂森、川井地区の約79haに及んでいます。
 名前の由来については、江戸初期に「かぶきもの」として知られる前田慶次が奄を結んだところから、慶次清水と呼ばれています。
 前田慶次は、加賀百万石を築いた前田利家の甥で、故あって前田家を出て上杉家に仕えた武将です。
■「かぶきもの」慶次の逸話
 慶次は文学、和歌に優れ、源氏物語などの古典に造詣が深く、連歌も一流の歌人に交わって詠んでいます。また、馬術、武道にも優れ多くの戦場で大活躍した豪傑です。このように文武に優れた慶次ですが、変わったことを行う「かぶきもの」でも有名です。叔父利家をだまし寒中に水風呂に入れ、その間に京を出奔した事、愛馬「松風」を贅沢に飾りつけ京の町並を歩いた事、風呂屋に脇差(実は竹刀)を持って湯船に入り、驚いた周りの武士が脇差しを持ち湯に入り刀を駄目にしたといった逸話があります。枠に収まりきれない、スケールの大きな人物でした。
■上杉家を離れず、堂森で悠々自適の生活
 慶次は京で自由に振る舞った後、上杉家に仕えました。同じく学問に秀でた直江兼続との親交、その君主景勝の信義を重んじる人柄に魅かれたものと思われます。
 その後、上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石に削封され、新参家臣が多く離れる中、慶次は他藩からの誘いを断り、わずかな知行で米沢に留まりました。そして、郊外の堂森に小さな庵を建て「無苦庵」と名付け、悠々自適の生活を送りました。堂森での隠居生活も生来の「かぶく」心は失われず、新築祝いに招かれた時、「満つれば欠けることに気付け」と床柱を斧で傷つけ諭した等、多くの逸話を残しています。
 慶長17年(1612年)堂森で死去。北寺町の一華院(現在廃寺となり不明)に葬られたと伝えられ、堂森の善光寺には供養塔が建てられています。

笹野観音 ~伊達・上杉氏も信仰した由緒ある御堂~

仁王門
境内
お鷹ポッポ像
 笹野観音は、大同元年(806年)弘法大師の高弟、徳一上人の開基と伝えられています。伊達氏・上杉氏の信仰篤く、伊達政宗が野始めの途中に訪れたり、上杉氏は、藩主病気の時や天候不順の折には祈願を命じ、定勝公、綱勝公、綱憲公三代の間に4度の御堂の再建・修復がありました。鷹山公改築の御堂は、天保4年(1833年)に火災に遭い、現在の御堂は、天保14年(1843年)に上杉斉憲公により再建されたものです。規模宏壮、彫刻精巧、置賜地方では稀な壮大な建物です。
 本尊は、千手千眼観世音菩薩で、置賜19番、米沢1番札所です。大門より参道長く、仁王門があり、境内には諸堂があり、長命山幸徳院(真言宗)が別当寺です。
 参道北側の石の地蔵尊は、米沢城下の大商人渡辺伊右衛門が四百五十両余の大金をかけて建てた延命地蔵尊で、蔵王山の麓から運ばれた約30個の石で組み立てられています。
 また、境内の紫陽花は見事で、別名「あじさい寺」ともいわれ親しまれています。
 年越祭は、古く旧12月17日のち、新12月17日に行い、近年は新暦1月17日に行っています。十七堂祭りと呼ばれる護摩壇の行事があります。この日、信者や行者によって無病息災を祈願する火渡りの荒行が行われます。また例祭には「花市」と称して笹野彫の市が立ちます。また笹野観世音地内の外、城南5丁目照陽寺境内にも「飾り花」や笹野彫を売る店がたちならび、お鷹ポッポや恵比寿大黒、十二支の縁起物を求める人で一日中にぎわいます。
米沢平野土地改良区
〒992-0012
山形県米沢市金池五丁目9番5号
TEL 0238-23-0015
FAX 0238-21-7257
E-mail yonehei@sanae.or.jp
中央管理所
TEL 0238-37-8011
FAX 0238-21-7521
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