米沢平野管内ぶらり探訪 米沢市
米沢市
直江石堤 ~歴史ある治水事業を今に伝える~
直江石堤は、米沢市の南部にあり、最上川の最上流部の松川の治水対策として作られた堤防です。その地名をとり谷地河原堤防また蛇堤とも呼ばれています。
慶長5年、当時米沢は直江兼続が治めていました。(兼続の主君)上杉景勝が関ヶ原の戦いで西軍に組したため、景勝は会津120万石から米沢30万国に領地を削られ、そのため慶長6年(1601年)、景勝は家臣団を率いて米沢に入ることとなりました。多くの家臣団が移り住み、城下町の拡大の必要性があると考えた兼続は、屯田制度による氏族救済の実施、家臣団の屋敷割や町割、さらに治水、さまざまな産業振興策を行いました。その治水の一貫として築かれたのが直江石堤です。
直江石堤は、上幅約5m、底幅約10m、高さ約2m、斜面の長さ約12mの堤防で、三面を自然石を組み合わせた野面積みで仕上げられ、この堤防の約100m内則にも同様の堤防を作り、二重提としていました。当時の時代を考えると、よほどの大工事だったことでしょう。兼続みずから赤崩山に登り、米沢城や松川の地形を見渡し、洪水を防ぐにはどうしてもここに堤防を築かなくてはならないと決心し、この大規模な築提を計画したものと伝えられています。
現在、長さ1.2kmにわたって石堤が残り、米沢市の史跡にも指定されています。また、石堤のある河川敷は公園に整備され「直江堤公園」として解放され、市民の憩いの場所となっています。
慶長5年、当時米沢は直江兼続が治めていました。(兼続の主君)上杉景勝が関ヶ原の戦いで西軍に組したため、景勝は会津120万石から米沢30万国に領地を削られ、そのため慶長6年(1601年)、景勝は家臣団を率いて米沢に入ることとなりました。多くの家臣団が移り住み、城下町の拡大の必要性があると考えた兼続は、屯田制度による氏族救済の実施、家臣団の屋敷割や町割、さらに治水、さまざまな産業振興策を行いました。その治水の一貫として築かれたのが直江石堤です。
直江石堤は、上幅約5m、底幅約10m、高さ約2m、斜面の長さ約12mの堤防で、三面を自然石を組み合わせた野面積みで仕上げられ、この堤防の約100m内則にも同様の堤防を作り、二重提としていました。当時の時代を考えると、よほどの大工事だったことでしょう。兼続みずから赤崩山に登り、米沢城や松川の地形を見渡し、洪水を防ぐにはどうしてもここに堤防を築かなくてはならないと決心し、この大規模な築提を計画したものと伝えられています。
現在、長さ1.2kmにわたって石堤が残り、米沢市の史跡にも指定されています。また、石堤のある河川敷は公園に整備され「直江堤公園」として解放され、市民の憩いの場所となっています。