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米沢平野管内ぶらり探訪 高畠町

高畠町

黒井堰 ~上杉藩の利水開発の軌跡~

「黒井堰落成の図」猪野文信筆 (米沢市所蔵[米沢市上杉博物館])
現在の黒井堰取水口
■黒井堰の歴史
 黒井堰建設は、九代藩主上杉鷹山の時代、米沢の北部およそ770haに、総延長約32㎞に及ぶ農業用水路を作るという一大灌漑事業でした。
 現在の糠野目以北、赤湯、宮内、梨郷に至る30余の村を北條郷といい、領内で最も肥沃な土地でありましたが、古来からの水不足でいったん日照りが続くと収穫皆無のことがしばしばありました。水田かんがいのために幾度となく堰が掘られましたが、干害を抜本的に救済するまでにはいたりませんでした。九代藩主上杉鷹山公は特に心を痛められ、苦しむ村民を救うために、寛政6年(1794年)黒井半四郎忠寄に普請奉行を命じ、半四郎は翌7年早々に工事に着手しました。
 それは、米沢市窪田で最上川を締切り、新たに取水口を設けて水路を堀り、北進して米沢街道を横断し、最上川に長さ七十間、幅七尺、深さ三尺の大樋を架設する大工事でした。寛政7年6月16日ようやく完成を見ることができました。この時、藩主治広や前藩主の鷹山が堰まで出向いて新堰の完成を祝い、半四郎の功労を賞するとともに、偉業を末永く記念するために「黒井堰」と命名されたのでした。
 その後、赤湯、梨郷方面にまで水路を延長し、寛政11年、実に6年間の歳月を要し、北条郷は現在のような美しい水田になったのです。
 現在残っている「黒井堰」は国営・県営事業によりコンクリート製の水路に生まれ変わっておりますが、米沢平野農業水利事業の幹線水路として現在も利用され置賜の田畑を潤しています。
■黒井半四郎忠寄
 米沢藩の中級家臣団である五十騎組の出身で、幼い頃から和算(算術)の勉学に励み、中西流和算の最高免許を受けました。その力が認められ、藩の財政を司る勘定頭に任命され、無駄な出費を削るなど、藩財政の政善に努め、寛政元年(1789年)には藩政の中枢を担う御中之間年寄に昇格。藩財政の改善のため支出の削減だけでなく、収入の増加(米の増収)を望み、灌漑用水の整備を計画しました。黒井堰の工事成功は、半四郎の優れた算術や緻密な計画のたまものです。
 また、半四郎は寛政10年(1798年)、飯豊山の西部側で新潟県に注ぐ荒川の水を堰と随道により東部側の白川へ流すための農業用水である「穴堰」の建設の現地調査を行い、翌寛政11年(1799年)着手するが、同年の冬死亡(享年53歳)。半四郎の死後も「穴堰」の建設は計画とおり進められ、着工してから20年後の文政元年(1819年)8月ようやく完成しました。
 「穴堰」は現在使用されておりませんが、山形県重要文化財の指定を受け、今も飯豊山中に昔のままの姿で存在し、黒井半四郎忠寄の業績を偲ぶことができます。
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